寅さんの回想日記

日頃の出来事を、投稿します!

●決死の引き揚げ脱北体験記(1945年~46年)







終戦の日を私は現在の北朝鮮海州の国民学校の一年生で迎えた。翌年の4月、親子4人で決死の逃避行を続けて、帰国した。 当時、父は中学の教師で、兵隊姿で帰宅して間もなく、日本人家族は寺に集結して、引き揚げまで集団生活したことを記憶している。 旧ソ連兵が土足で踏み込んで来て、めぼしいい物をすべて持ち去った。父が勤めていた 学校がソ連兵の基地になり、母達は兵隊の 洗濯をしていた。一度訪ねて行ったら、消毒 と散髪や入浴をしてくれた。寺ではかすみ網 で、捕った鳥や朝鮮漬けを食べて、脱走の 準備をしていた。子供達は外出出来ないので 境内で遊んだ。保安隊が踏み込んで、大人達を連行しているのを見たことが有る。 竹の子生活も限度で、父も真剣に、脱走の 時期を検討していたようだ。寒さと空腹には 我慢出来かったことを今でも覚えている。 雪解けを待って、翌46年3月31日未明、生活していた日本人が申し合わせて、 脱走した。当時父34才、母28才、弟3才の親子四人で、現ソウル市まで、仁川の河口 に集結して、父の教え子の案内で、暁の 逃避行が決行された。厳戒体制の哨戒網 サーチライトを覚えている。渡河に無事成功海岸から山中に逃げた。昼間は山に身を潜め夜道を歩いたのでなかなかはかどらなかった年寄りや子どもなど体力のない者から次々と脱落していった。ようやく南北を隔てる 38度線を超えた時、全員へたり込んで、 半日動けなかった。出発時の半数以下に 減っていたという。ソウル市内の灯が見えたとき周りの人たちは泣いていた。足が棒の様になったが、貰ったおにぎりの味は、今でも忘れられない。ソウルから釜山まで、貨車で家族四人無事脱出できた。胸まできた寒流で流されそうになった時は、もう駄目かと思った助けてくれた人に感謝したい。 釜山から、興安丸で、博多に入港して、 父の実家がある那珂川市に着いた。4月再入学する。中学一年の時、父は高校 教師在職中他界する。中学2年の頃遊泳中救助された。 それから、新聞配達や 農家の手伝いをして、中学を卒業する。 長野の伯父の世話で、工業高校の電気科を 卒業して、私鉄の変電所に 就職して、勤続四十年で、定年退職した。 脱北の体験は、忘れることが出来ない。